2010年09月18日
沖縄戦を歩く
先週土曜日、市立大学のフィールドワークに同行し、戦跡を歩いてきた。
沖縄戦激戦地の一つ、通称ハーフムーン
現在、道路拡張のため、遺骨ごと丘は削られ土砂として廃棄されるとのこと…
(同じく激戦地の一つだった通称シュガーローフ近辺は沖縄戦後、整地され、その際の遺品や遺骨はそのまま沖縄の埋め立てに使われたそうだ)
ここに来るのは2回目
前回来た時より大きく丘は削られ、この場所で遺骨収集をしている具志堅さん曰く、道路になるもの時間の問題とのこと
今回の目的は、G志堅さんからお話を聞くこと
いつも色々考えさせられるのだけど、うまく言葉にできないで消化不良のまま終わってしまうのがとっても悔しいが、これが今の自分の文章力の限界だと教えられる場でもある
真嘉比の現場を歩き、西原の現場(森!)を歩いた
西原の現場には暗い森の中の壕の跡にはうつ伏せに倒れたままの遺骨が4体
彼らは65年間、変わらない格好でここにいたのだ
具志堅さんは言った
「ここに運ばれてきた時、この人たちまだ生きていたのかもしれない」
一人の人は茶碗を握り、枕元にはやかんがおかれていた
そして、うつ伏せで寝かされているということは背中が痛くて仰向けに慣れないからうつ伏せに寝かされていたのでは、それは、この場所に運ばれてきた時、彼らが生きていたのでは、とG志堅さんは言っていた
誰のものかもわからない遺骨だが、彼らは生きていたということを主張しているかのようだった
戦闘中に運ばれてきて、仲間は「きっと戻ってくる」といいこの場を後にしたのかもしれない
砲弾の鳴り響く中、暗く小さな壕の中で何を思い、何を考えていたのだろうか
故郷のこと、家族のこと、将来のこと
きっと生きて帰ってやるって思っていたのかもしれない
また、国の事を考えていたのかもしれない
そんなこと考えることはナンセンスなことなのかもしれない
ただ、悲しい
それだけしか思えない
だって、ここで亡くなった人にも家族や大切な人はきっといたはずだ
そして、戦争さえ起きなければただの一般人だったということだ
戦争とはそういうことなのかもしれない
具志堅さんは沖縄中にまだ未収集の遺骨が沢山あると言っていた
本土には帰ってこない夫やいい親、兄弟、恋人を待ち続けている人も同じ様に沢山いるのだろう
戦場から帰ってきた白木の箱には遺骨の代わりに石や砂がおかれていたという話は少なくない
ただ、この”遺骨”について、どう見るかでまた変わってくるのだろう
人として、戦争の犠牲者としてみるのか、それとも。
戦後65年が経った
もう65年、まだ65年
人それぞれだと思う
が
風化させてしまうにはまだ早すぎるし、何も解決していないのではないかと思う
真嘉比の戦跡が残されたのは、けして戦跡だったからではない
貴重な琉球王朝時代の墓(文化財)があったからその調査の為に残されていただけ、だ
人骨は100年を超さないと文化財として認められないそうだ
沖縄戦という負の遺産は文化財としてはまだ認められないようだ
戦後100年経ったとき文化財として国は前の戦争を覚えているのだろうか
もはや戦後ではない、と言った人がいたが、まだ戦後ではないの方が正しいのではないか
何をもって戦後というのだろう
組織的戦闘が終了しただけ、ではないのではないだろうか
人々の中に終わらない悲しみや苦しみがある限りきっと戦後はこないのだろう
この日の空はやたら青くて暑くて、すっきりしない天気の続いた今年の夏にとってはやっと夏が来たという感じだった
この青空は65年間きっと変わらない青空だったのだろう
65年前、この青空を見ていた人は65年後をどう想像していたのだろうか
「アオイソ アオイウミ」(逆だっけ??)
戦後、沖縄の小学校の教科書の文章だ
この海が赤く染まることが無いように
この空が黒く曇ることが無いように
ただそれだけを祈りたい
沖縄戦激戦地の一つ、通称ハーフムーン
現在、道路拡張のため、遺骨ごと丘は削られ土砂として廃棄されるとのこと…
(同じく激戦地の一つだった通称シュガーローフ近辺は沖縄戦後、整地され、その際の遺品や遺骨はそのまま沖縄の埋め立てに使われたそうだ)
ここに来るのは2回目
前回来た時より大きく丘は削られ、この場所で遺骨収集をしている具志堅さん曰く、道路になるもの時間の問題とのこと
今回の目的は、G志堅さんからお話を聞くこと
いつも色々考えさせられるのだけど、うまく言葉にできないで消化不良のまま終わってしまうのがとっても悔しいが、これが今の自分の文章力の限界だと教えられる場でもある
真嘉比の現場を歩き、西原の現場(森!)を歩いた
西原の現場には暗い森の中の壕の跡にはうつ伏せに倒れたままの遺骨が4体
彼らは65年間、変わらない格好でここにいたのだ
具志堅さんは言った
「ここに運ばれてきた時、この人たちまだ生きていたのかもしれない」
一人の人は茶碗を握り、枕元にはやかんがおかれていた
そして、うつ伏せで寝かされているということは背中が痛くて仰向けに慣れないからうつ伏せに寝かされていたのでは、それは、この場所に運ばれてきた時、彼らが生きていたのでは、とG志堅さんは言っていた
誰のものかもわからない遺骨だが、彼らは生きていたということを主張しているかのようだった
戦闘中に運ばれてきて、仲間は「きっと戻ってくる」といいこの場を後にしたのかもしれない
砲弾の鳴り響く中、暗く小さな壕の中で何を思い、何を考えていたのだろうか
故郷のこと、家族のこと、将来のこと
きっと生きて帰ってやるって思っていたのかもしれない
また、国の事を考えていたのかもしれない
そんなこと考えることはナンセンスなことなのかもしれない
ただ、悲しい
それだけしか思えない
だって、ここで亡くなった人にも家族や大切な人はきっといたはずだ
そして、戦争さえ起きなければただの一般人だったということだ
戦争とはそういうことなのかもしれない
具志堅さんは沖縄中にまだ未収集の遺骨が沢山あると言っていた
本土には帰ってこない夫やいい親、兄弟、恋人を待ち続けている人も同じ様に沢山いるのだろう
戦場から帰ってきた白木の箱には遺骨の代わりに石や砂がおかれていたという話は少なくない
ただ、この”遺骨”について、どう見るかでまた変わってくるのだろう
人として、戦争の犠牲者としてみるのか、それとも。
戦後65年が経った
もう65年、まだ65年
人それぞれだと思う
が
風化させてしまうにはまだ早すぎるし、何も解決していないのではないかと思う
真嘉比の戦跡が残されたのは、けして戦跡だったからではない
貴重な琉球王朝時代の墓(文化財)があったからその調査の為に残されていただけ、だ
人骨は100年を超さないと文化財として認められないそうだ
沖縄戦という負の遺産は文化財としてはまだ認められないようだ
戦後100年経ったとき文化財として国は前の戦争を覚えているのだろうか
もはや戦後ではない、と言った人がいたが、まだ戦後ではないの方が正しいのではないか
何をもって戦後というのだろう
組織的戦闘が終了しただけ、ではないのではないだろうか
人々の中に終わらない悲しみや苦しみがある限りきっと戦後はこないのだろう
この日の空はやたら青くて暑くて、すっきりしない天気の続いた今年の夏にとってはやっと夏が来たという感じだった
この青空は65年間きっと変わらない青空だったのだろう
65年前、この青空を見ていた人は65年後をどう想像していたのだろうか
「アオイソ アオイウミ」(逆だっけ??)
戦後、沖縄の小学校の教科書の文章だ
この海が赤く染まることが無いように
この空が黒く曇ることが無いように
ただそれだけを祈りたい
Posted by NaOKo at 15:39│Comments(0)
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